名古屋地方裁判所 昭和41年(わ)1819号 判決 1968年4月30日
被告人 塩路敏典
主文
被告人を罰金五万円に処する。
右罰金を完納することができないときは金一千円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和二九年三月名古屋大学医学部を卒業し翌年医師国家試験に合格、その後約五年間同大学医局に於て研究生活を送つた後長野県大町市立病院の内科担当医、次いで愛知県新城市民病院の内科担当医を経て昭和四〇年七月名古屋市港区大手町一丁目一〇番地所在中之島医療生活協同組合診療所に移り内科、小児科、放射線科を担当し医師として医療に従事していたものであるが、昭和四一年五月三一日名古屋市港保健所が名古屋市港区大手町三丁目二八番地市立大手小学校一年三組教室において施行した乳幼児を対象とした初回免疫のための百日咳、ジフテリア混合ワクチン予防接種にあたり接種を行なつたものであるが、かかる場合医師としては、もし接種すべきワクチンの種類を誤るときは、ワクチンの相違により乳幼児の生命身体に不測の危害を招来する危険があるのであるから、ワクチンの種類の判別に過誤のないことを期し、接種にあたつては自己を補助する看護婦にワクチンの種類を確認させるか、又は自ら附近の机上にあつたワクチン入り容器の標示やワクチンの使用書などを読むことにより、そのワクチンが百日咳、ジフテリア混合ワクチンに相違ないか否かを確認し、被接種者の生命身体に対する危害の発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるのに、当日右保健所防疫係員奥田秋子が同保健所内のワクチン保存用冷蔵庫から腸チフス、パラチフス混合ワクチンを百日咳、ジフテリア混合ワクチンであると誤信して持ち出し、かつ被告人を補助する看護婦赤塚キチもこれを百日咳、ジフテリア混合ワクチンであると誤信して注射器に詰め、これを被告人もまた百日咳、ジフテリア混合ワクチンであるものと速断し、ワクチンの種類の判別に何ら注意を払わないままこれを別表記載の吉戸美香ほか四一名の体内に同表注射量欄記載の腸チフス、パラチフスワクチンを注射して接種した過失により、同表に記載のとおり同児らに同表記載のような発熱、チアノーゼを生ぜしめそれぞれ傷害を負わせたものである。
(証拠の目標)<省略>
(弁護人らの主張に対する判断)
一、安藤弁護人及び大矢弁護人は、元来予防接種は、実施責任者である市町村長の委任に基き、保健所長がその実施を担当し、接種場所の設営、ワクチンの保管及び注射器への詰込み等接種に必要な準備はすべて保健所長の責任において行なわれ、開業医である被告人は、接種技術を提供することによりこれに協力しているにすぎない。従つてこのような分業形態のもとでは、被告人には、港保健所の職員である奥田、赤塚の両名によつて準備された注射器の中のワクチンが間違つていないかどうかまで確認する義務はない。またこのような形態のもとでは、予防接種を実施するに当り、被告人が保健所に対する信頼から、右両名によつて行われた準備行為が、適確になされているものと信頼するのは当然であつて、そのうえ、同人らの行為に過誤のあることを慮り、被告人に対し、既に注射器に詰められた注射液が誤りないものであるか否か確認すべき義務があるというのは不可能を強いるにひとしいものである。従つて注射液の確認をしなかつたことにつき、被告人に過失はない、と主張する。
よつて按ずるに、予防接種法五条によれば、予防接種は、市町村長(名古屋市においては市長から委任を受けた保健所長)に実施責任があるが、このことは市町村長が予防接種を行うべき行政上の責任があるという趣旨にすぎないのであつて、このことと具体的に予防接種にあたる医師が業務上如何なる注意義務を負うかとは別個に考察さるべき事柄である。
ところで、予防接種は医師でなければ行うことができないのであるから、予防接種に当る医師は、医療専門家としての判断と責任において医療行為の一種である接種業務に従事しなければならない。その予防接種を施すに当つては、注射液の種類、品質を誤るときは人の生命、身体に不測の事態を招来する危険があるから、接種業務に従事する医師としては、単に注射液を注射するのみならず、注射液の確認、判別に過誤なきを期し、もつて危険の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるものと謂うべく、このことは、予防接種がいわゆる集団方式を採ると或いはいわゆる個別方式を採るとによりその間異別に扱うべき理由は見出せない。尤も医師が医療行為を行うに当つて、補助者たる看護婦の行為を或程度信頼して行動しなければ、円滑にして能率的な医療行為は期待できないが、この場合といえども、看護婦は医師の補助者であるに止り、医療行為につき主導的優位的立場に立つ者は医師である(ドクター優位)、その医師に対し前記の如き業務上の注意義務の要求せられるのは当然である。本件において被告人が接種会場に到着した時には、ワクチンを詰めた注射器の並べてあつたバツトのすぐ隣に、ワクチンの種類、用量等の記載してある二〇cc入りワクチンの小箱がおいてあり、傍らの膿盆には、ワクチンの使用書が入れてあつたのであるから容易にこれらを一覧しうる状態にあり、かつその時間的余裕も充分あつたにも拘らずかかる措置をとることなく単に前記赤塚キチに接種用量を尋ねたのみで、漫然注射を始めたものであるから、特に医師としての基本的注意義務を怠つたものというべきであつて、信頼の原則を適用して過失責任を否定すべき場合には当らないといわねばならない。
二、安藤弁護人は、本件被害者らに生じた発熱等の症状は、百日咳・ジフテリア混合ワクチンの場合は勿論、腸チフス・パラチフス混合ワクチンの場合でも、その接種により発生することが通常予定されている副作用にすぎないから、これをもつて刑法にいわゆる傷害ということはできない。また右の如き症状が、乳幼児に対する腸チフス・パラチフス混合ワクチンの規定量(〇・二五cc)を超過して接種したため生じたと認めるに足る証拠もない。従つて被告人は、この点においても無罪である、と主張する。
しかしながら、本件被害者らに生じた発熱等の症状が、刑法にいわゆる傷害に当ることは論を俟たないところであり、そのような症状は判示の如く被告人の過失ある行為に因つて発生したものと認められるので、被告人は右行為に対する刑法上の責任を免れ得ないことまた当然といわねばならない。従つてこの主張も採用しない。
(法令の適用)
被告人の判示行為は、いずれも刑法二一一条前段、罰金等臨時措置法三条に該当するので所定刑中罰金刑を選択し、右は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四八条二項により各罪所定の罰金の合算額の範囲内で被告人を罰金五万円に処し、右罰金を完納することができないときは、同法一八条により金一千円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用は刑訴法一八一条一項本文に則り全部被告人の負担とする。
よつて主文のとおり判決する。
(裁判官 小川潤 三村健治 平野清)
別表<省略>